LOGINその日は、風のない、静かな日だった。
庭の木々は動かず、噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は、マルグリット夫人の授業を終えて、回廊を歩いていた。
「――皇太子殿下は、何かを隠しておいでだそうよ」
「まあ、何かとは」
聞こえてきたのは、若い令嬢たちの声だった。
回廊の陰、庭に面した東屋のあたりから、風に乗るでもなく、ひそひそと。
日差しは強いのに、その声だけが、妙に冷たく耳に届いた。
石造りの柱に、私は肩を寄せた。ひやりとした感触が、頬の近くにあった。私は、足を止めた。
「ノクスハイム嬢との婚約、あまりに急ではなくて」
「ええ。決闘の噂は聞くけれど、それだけであれほどの譲歩をなさるかしら」
「兄が申しておりましたわ。教会が、何か不穏な動きを見せていると」
「教会が」
「詳しくは分からないけれど。ただならぬ気配だとか」
私は、柱の陰で、身動きが取れなくなって
四天王が揃った日から、半月が過ぎた。帝都は、驚くほど早く日常を取り戻していた。門の修復は済み、市場には人が戻り、通りには物売りの声が響いている。あの四方からの攻撃がまるで嘘のようだった。私は、その回復の速さにこの国の底力を見た気がした。宮の日々も、落ち着きを取り戻していた。ネフィリスは正式に情報部の職を与えられ、ゼルの作った仕組みに従って、几帳面すぎるほどの報告書を毎日提出してくる。シェラはそれを「あの者にしては上出来」と評した。ドルフは村に戻った。呼べば来る、というあの約束だけを残して。*「――平穏、ですね」ある朝、庭を散策しながら、私は思わずそう呟いた。「そう見えるだけかもしれん」隣を歩くアルヴィス様が、静かに答えた。「バルドウィンが、あれで終わるはずがない」「ええ。分かっています」分かってはいたが、それでも、この穏やかな時間を否定したくはなかった。庭の花は満開で、遠くから鳥の声が聞こえる。こういう朝が、当たり前に続いてほしいと願うことは、罪ではないはずだった。けれど、その願いはその日のうちに打ち砕かれた。*昼過ぎ、ガイル様が執務室に駆け込んできた。その顔色を見た瞬間、私は嫌な予感を覚えた。彼は普段、感情を表に出さない人だ。それが今、はっきりと動揺している。「殿下。聖教会より、大陸全土に向けた布告が」「読み上げてくれ」アルヴィス様が、書類から顔を上げた。ガイル様は、深く息を吸ってから、羊皮紙を広げた。「――聖教会は、本日をもって、ミナ・レンフィールドを正式な『聖女』として認定する」その一言に、私は椅子から立ち上がった。「認定、ですか」「はい。候補ではなく、正式な聖女として」その意味を、私はすぐには理解できなかった。
番外編 はじめての、全員帝都に戻って、七日が過ぎた。四方の戦いは、完全に収束していた。東門も、北門も、南部も、そして西門も。死者は驚くほど少なかった。ガイル様の報告によれば、帝国側の戦死者は十二名。敵側はそれより少ないという。その数字を聞いたとき、私は静かに息を吐いた。決して軽い数ではない。けれど、七千を超える兵が押し寄せたことを思えば、これは奇跡に近い結果だった。そして今日、私は宮の広間に皆を集めていた。「――全員、揃いましたね」シェラが、少し感慨深げに言った。広間には、丸い卓が一つ置かれている。その周りに、四つの椅子。座っているのは、シェラ、ゼル、ドルフ様、そしてネフィリス。四天王が、初めて同じ場所に集った。前世でもこんなことは一度もなかった。いや、正確に言えば、あったのかもしれない。私が知らなかっただけで。あの頃の軍は、組織と呼べるものではなかった。私が「次は東へ」と言えば、軍は東へ動いた。それだけだった。誰がどの戦線を担い、誰が誰と組んだのか、私は一度も把握していない。命令を下していたつもりすらなかった。ただ、私が向かう方角に、彼らが勝手についてきていた。だから、私の記憶には、彼らの顔がない。被害者の顔を思い出せないことに、私はかつて愕然とした。けれど、同じことが、味方に対しても言えたのだ。私自身、四人が揃った姿を見るのは、これが生まれて初めてだった。「魔王様。何か、ご命令がおありでしょうか」ゼルが、いつもの丁寧
国境を越えたのは、翌日の夕刻だった。馬車は、休むことなく北へ走り続けていた。追手はなかった。バルドウィンは、本当に私たちを見送るつもりだったらしい。それが、かえって不気味だった。窓の外の景色が、乾いた赤茶けた土から、見慣れた緑へと戻っていく。帝国の土を踏んだと分かった瞬間、私はようやく、肩の力を抜くことができた。「――ここまで来れば、ひとまず安全でございましょう」シェラが、窓の外を確認しながら言った。「ええ。皆、よく無事で」私は、馬車の中を見回した。アルヴィス様、シェラ、そして、向かいの席で毛布にくるまっているネフィリス。彼は、大聖堂を出てから、一言も口をきいていなかった。*その夜、私たちは街道沿いの宿場町に宿を取った。小さな宿だった。二階の窓からは、村の灯りがいくつか見えるだけで、あとは暗い田畑が広がっている。帝都の華やかさとも、総本山の荘厳さとも違う、素朴な静けさがあった。夕食の後、私は一人で外に出た。宿の裏手にある小さな井戸の縁に、ネフィリスが腰を下ろしていた。膝を抱え、地面を見つめている。その背中は、いつもより一回り小さく見えた。「隣、いいかしら」彼は答えなかった。私は、構わず隣に腰を下ろした。*しばらく、二人とも黙っていた。夜風が、田畑の稲を揺らしている。虫の声が、絶え間なく聞こえてくる。空には、いくつもの星が瞬いていた。総本山の白い街並みとは、まるで違う夜だった。「――ごめんなさい」やがて、彼が呟いた。小さな、けれど、はっきりとした声だった。「ネフィリス」「あたし、ずっと間違ってた」彼は、顔を上げないまま続けた。「魔王様のためって、そう思ってた。誰かが汚れ役をやらなき
正午の鐘が、街全体に響き渡った。大聖堂の扉が、内側から静かに開かれる。私たちを迎え入れたのは、白い法衣をまとった聖職者たちだった。誰も言葉を発さず、ただ道を示すように、両側に並んでいる。その静けさが、かえって不気味だった。「――こちらへ」先導役の男が、短く告げた。大聖堂の内部は、想像を超えて広かった。高い天井には、色鮮やかな硝子がはめ込まれ、そこを通した光が、床に無数の色の模様を落としている。柱は太く、どこまでも高い。人の声も足音も、すべてが天井へ吸い上げられて消えていくようだった。美しい場所だった。だが、その美しさは、人を圧倒するために設計されたものだと分かった。*祭壇の前に、一人の男が立っていた。五十代半ばだろうか。豊かな白髪を後ろへ撫でつけ、金糸で縁取られた法衣をまとっている。細身だが、姿勢はまっすぐで、老いを感じさせない。何より、その目が印象的だった。深く、そして底が見えない。「よくぞ、おいでくださいました」彼は、穏やかに微笑んだ。「聖教会大司教、バルドウィンにございます」その名を、私は初めて、本人の口から聞いた。ずっと影の中にいた男が今、目の前で微笑んでいる。私は、膝が震えそうになるのを、辛うじて堪えた。「レーヴェンハルト帝国皇太子、アルヴィスだ」隣で、アルヴィス様が名乗った。その声には、一片の揺らぎもなかった。「ヴィオレット・ノクスハイムでございます」私も続けた。自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。*バルドウィンは、私たちを祭壇脇の椅子へ促した。腰を下ろすと、硝子越しの光が、ちょうど私の膝の上に落ちた。赤と青の模様が、布地の上で揺れている。その美しさが、この場の緊張と、どうしても噛
――――ゼル視点――――夜半、帝都の中央司令部には、まだ灯りが点っていた。高い天井の広間に、無数の書状と地図が散乱している。伝令が入れ替わり立ち替わり駆け込み、そのたびに新しい報告が積み上がっていく。わたくしは、三日前からほとんど眠っていない。前世であれば大したことではなかったが、この五歳の身体には堪える。だが、今は投げ出すわけにいかなかった。「東門、敵勢が後退を開始いたしました」伝令の一人が、息を切らして報告する。「ガイル様は」「ご無事です。負傷者は出ておりますが、死者はございません」その報せに、わたくしは静かに息を吐いた。東門は最も消耗が激しかった戦線だ。ガイル様の指揮が、よく持ちこたえてくれた。「北門は」「膠着のまま、日没とともに敵が引き上げました。明朝、再開の可能性がございます」「南部は」「主力が押し返しております。夜が明ければ、決着がつくかと」四方のうち、三方は把握できた。残る一つが、まだ届いていない。*西門からの報告が入ったのは、それから半刻ほど後だった。伝令が広間に飛び込んできたとき、その顔には明らかな困惑が浮かんでいた。伝令というのは通常、感情を表に出さぬよう訓練されている。それが崩れているということは、よほど理解しがたい事態が起きたということだ。「西門、敵勢およそ千二百、完全に撤退いたしました」「撤退。突破されたのではなく」「はい。門の守りは、一切破られておりません」わたくしは、思わず身を乗り出した。西門の守備は、二十名程度だったはずだ。千二百を、その数で止められるはずがない。「増援を送った覚えはございませんが」「増援は、ございません」「では、どうやって」「―
――――ドルフ視点――――先頭の騎馬が、俺の十歩ほど手前で止まった。砂埃が、ゆっくりと晴れていく。その向こうに、隊列が広がっていた。槍を持つ者、剣を提げる者、粗末な革鎧をまとった者。統一されていない装備が、彼らが正規軍でないことを物語っている。だが、数だけは確かに千を超えていた。「――そこをどけ、老いぼれ」騎馬の男が叫んだ。指揮官らしい風体だった。「どかん」俺は短く答えた。「死にたいのか」「死ぬ気はねえ。あんたらを殺す気もねえ」その言葉に、男が眉を寄せた。前列の兵たちが、顔を見合わせている。刃のない鉄棒を担いだ老人が何を言っているのか、理解できずにいるのだろう。「――正気か。一人で、この数を止められると思っているのか」「そんなもん知るか」俺は、鉄棒を肩から下ろした。地面に石突を突き、両手で柄を握る。「だが、やらねばならん」*最初に動いたのは、前列の三人だった。槍を構えて、同時に突進してくる。訓練された動きではない。勢いだけの、素人の突撃だ。俺は半歩だけ横に動き、最初の槍をやり過ごした。そして、鉄棒を振った。狙ったのは、人ではない。槍の柄だ。乾いた音が響き、三本の槍が、まとめて中ほどから折れた。持ち主たちが、たたらを踏んで後ろへ下がる。「な――」誰かが息を呑む声が聞こえた。俺は、追撃しなかった。ただ、元の位置に戻り、再び石突を地面に突いた。三十五年、ひたすらに鉄を打ち続けてきたのだ。どこを叩けば折れるか、どの角度で当てれば砕けるか。鉄の性質は、俺の身体が誰よりも知っている。*そこからは、同じことの繰り







